前半である1部の主人公視点の物語を読み進めている時、あまりの解像度の高い人間心理の描写・人間関係のいびつさに戦慄した。
とはいえ文章自体は決して難解な単語が並んでるわけではない。むしろ簡単であるし、分かりやすい。
分かりやすいからこそリアリティを増す。
そして、リアリティとは読者がその環境に自己を投影しやすいということである。
だからといって、安直な単語と単語を繋げていれば必ずしも安直な文章として成り立つわけではない。
つまり、そこに『言葉』の不安定性であったり人間関係のいびつさを見るのであり、かつ戦慄するのである。
解説者である朝井リョウでさえ、どこか匙を投げてるように感じるのは勘違いではあるまい。
だがそれはネガティブな意味ではない。
良い意味で『手に負えない』のであり、そこに解説者を置くことはナンセンスなのである。
さて、この物語は結婚を控えた女性の主人公:真実(まみ)が失踪するところから始まる。
ミステリにおいて「なぜ」、つまりホワイダニットであるが、なぜ女性が突如として婚約者の前から消えたのか?が核となる。
ホワイダニットにおいて人間の心理やその複雑さを緻密に練り上げることは何も珍しいものではない。
そうでないと『なぜ』という動機が薄っぺらいものになってしまうからだ。
この物語の結末を知ったとき、ある読者は失望するかもしれない。
「そんなことで?」と。
だがそれは傲慢である。
人が人を客観的に見たときそうなるように、けれどそれが自分の物語だとしたら?
他人にとってくだらないそれをくだらないと端的に判断するのは傲慢ではないか?
傲慢な人たち。その裏では善良とされている人たち。
彼らは本当に対局として存在していると断言できるだろうか。
親と子
親は常に子供にとって絶対的存在であると信じている。いや、信じたい。
その信念は子供を育てる上で確かに存在するべきだと私も思う。
子供に対して常に『こうあるべきだ』『そう思わないことに罪悪感を抱くべきだ』と考えているし、信じている。
それは親にとってみれば『善良』であるが、行き過ぎると『傲慢』である。
矮小な己れの考えを人に押し付けるそれは、行き過ぎると子供の自立を阻む。
主体性のない子供の人格は、ただなすがままに流され、気づけば個性のカケラもない。
言われたまま、それが正義か悪かを考える術もなく、いつしか没個性として沈んでゆく。
だが一方で、その矮小な世界で結婚をする者もいる。
本作はそれを肯定も否定もしない。
互いが意図せずとも結果としてそれなりに幸せな結婚に至るのならそれもそれでよいではないか、と。
男と女
1部の人間関係のやり取りには男女の機微が容赦なく描かれている。
真実(まみ)と婚約者である架(かける)とその女友達の行動と言動だ。
「真実(まみ)を護りたい」と躍起になって彼女を探索する彼の行動は、傍から見れば善良そのものである。
人一倍誰かの気持ちに敏感であると信じているし、少なくともその文章の解像度の高さから鑑みるに、敏感で繊細でイケメンで優しい誰もが羨む理想の男性である。
だが、彼の女友達である美奈子と梓に「目を覚まして」と言われてしまう。
「あなたは騙されている」と。
一方で、そんな彼をある人はこう言っている。
「こんな鈍感で傲慢な彼に、私はこれからも掬われていくのだろう」
ここでは女性ならではの敏感さと傲慢さが顕著に表れている、ようだが、架(かける)視点を読み終えている読者なら「彼は鈍感か?」と問われると決してそうではないことがわかるだろう。
本音と建前
当たり前だが、人には人の事情がある。
それは誰もが簡単に推し測れるものではない。
なのに人は、その人、をカテゴライズして安心を得る。
なぜならば得体の知れないものがそこにあることを人は畏怖するからだ。
皮肉にも、カテゴライズして安心を得る、という行為は己れの考えを狭めてしまう。
今ある自分の知識で完結し、それが正義だと信じて疑わない。
それは前述した親子然り、男女間においても同様である。
それはある意味で悲しいものである、と思いながらも、しかしながらそんな関係性でも幸せと言えるのなら誰がそれを否定できようか。
本作は「婚活を就活や物件探しに似ている」と揶揄しているが、著者でさえそれを否定できない世の中の在り方、当然として捉えないと生きることができない、というような本人の葛藤を描いている、ようにも思える。
それはさながら『本音と建前』にも似ている。
傲慢と善良
人が善良として信じて行動すること。
善良という名のもとでそれを疑わない傲慢さ。
自己評価は低いくせに自己愛だけは著しく高い人たち。
言い得て妙なそれらを過剰に見せつけられた私の胃の状態は甚だしく悪い。
冒頭にも書いたが、結末がハッピーエンドか否かを問うのも、どんな小説だったのか解説するのも、もはやナンセンスなのである。
どのように解釈するのかは読者に任せるが、しかし一個人として「それでも事の顛末を述べよ」と問われるなら、答えるとしよう。
「お前はお前、人は人」
著:中の人
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