回転している寿司に唾をかけたり、備え付けの醤油の蓋部分をぺろぺろする。
そんなことをする輩が将来出てくるだろうとは思っていたが、ついにニュースになる日が来た。
というより既にそんな蛮行をしている輩がたくさんいるだろうなあ、とは思っていた。言うまでもなくSNSによって可視化された結果である。
TwitterやTikTokなどでは他にも、某カラオケ屋のアイス提供コーナーにて注がれる出口に直接口を開けてそれを飲み込む、更にはゲームセンターにあるゲーム機のタッチパネル部分をぺろぺろするなど、もはやぺろぺろは世間のブームである。
だがそんなことをする人がいるということは翻すと、商品…例えば回転寿司であれば提供する側である従業員が当該商品に対して内密に唾をはきかける、地面に落としたネタをそのままシャリに乗っけて提供するなど、考えれば考えるほど最悪なことを思いつく。
それはモラルがどうこうということは置いておいて、現実として「やろうと思えばできる」状態である。
それを放置した会社側の責任がない、とは決して言えまい。
なぜなら回転寿司においては、そこに人件費やら煩わしいものを排除し利益を追求した結果であるから、リスクを承知の上で業務を継続していたわけである。
ならば、いわゆる『ぺろぺろした人たち』が一概に『司法による善悪の処断』を受ける側とも言いにくいし、商品を提供した企業側が『護られるべき対象』として司法による善悪の処断を求めるのもいささかおかしい話である。
なるべくしてそうなったそれら『事件』と言われるものは私にとっては当然に想定できる現象だし、企業側が加害側に損害賠償や刑事罰を求めるのも違和感を感じざるを得ない。
これらの対策方法として、社会的にどうこうというよりかは、個人として『想定できる最悪なことをいかにして防ぐか』を考えられるものどうかに尽きる。
私が『加害した側を擁護する』というくだらない問題ではない。
これらは『いったい何なのか』
突き詰めると、これらは結果ただの『流行り』である。
人間の限界
インターネットのセキュリティには必ず穴がある。
コンプライアンスを掲げる企業にも隙がある。
いじめを無くそうと躍起になる学校にも限界がある。
世界平和を願っても戦争は起こる。
それら原因は『人間が人間たる所以』である。
人間である以上、それらを完全に排除することは絶対的に不可能である。
不可能であれば『なるべくそうならないようにどうするか』考えるべきであるし行動すべきである。
これは当然の結論であり、残念ながら考えることができない人間(思考放棄した人間も)が淘汰されていくのは自然の摂理だし、会社も同様だ。
義務教育
2ちゃんねる創設者ひろゆきがスシローぺろぺろ事件に対して「日本の義務教育がちゃんとしてない」と発言していたが、残念ながら日本の義務教育に法律はない。
法治国家であるにもかかわらず法律を義務教育にしない理由には大人な事情、つまり政府にとって不都合な真実があるからだ。
法律を知ってしまうと『なんでもかんでも訴訟事件』になってしまうのを防ぐためである。
日本においては訴訟問題が他国よりも少ない。
それは人種的なものもあるだろうが、意図的に政府が『訴訟のない社会』を目指しているからである。
訴訟にはどうしても時間がかかってしまう。
なんでもかんでも事件にしてしまうと訴訟問題で世の中は氾濫し混乱してしまう。
そうなると三権分立が崩壊する。
カオスとなった日本はもはや争いの絶えない国となり、果てには革命などによって国家が転覆してしまう可能性がある。
つまり政府は『なるべく法律を教えたくない。ごくわずかな一定数が知っていれば良い』と思っているのである。
だから義務教育に法律科目はない。
法律の壁
では仮に法律を義務教育に取り入れたとしよう。
だが、義務教育を受けていようがいまいが、『する人』はする。
例えばうつ病の人に対して「うつ病になるな」と言っても無駄であろう。
電車で席が空いてるのに座らないで立ってる人たちに対して、座るべきだから「座れ」と言うのだろうか。
義務教育で「回ってるお寿司に唾をかけてはいけません。備え付けの醤油の蓋をぺろぺろしてはいけません」と教えたとして、その言いつけを守る人たちはどれほどのものだろうか?
それでも『する人はする』だろう。
では「回っているお寿司に唾をかてたり、備え付けの醤油をぺろぺろすると50万円以下の罰金、または懲役5年の罰になります」と教えたらどうだろうか?
それでも『する人はする』であろう。
それでもする人たちを『バカ』だと仮定して、そして『バカな人』を罰したとて、やはり無くならないものは無くならないのである。
バカの視点
では、バカ側の視点で見るとどうだろう。
備え付けてある醤油を、暗にぺろぺろしてもいいですよ、と受け取る人もいるのではないか?
今回はたまたまぺろぺろを取り上げているが、今度は備え付けの醤油を故意的に周りにぶちまける人が出てきた。
蕎麦屋に置いてある天かすを無闇矢鱈に食べる人も出てきた(露呈してきた)し、某カレー店において備え付けの漬け物にそのままスプーンを突っ込んで食べまくる人も出てきた。
もはや枚挙にいとまがない。
これらは善悪としての問題というよりかは、物理的にそこに置いてあるからできるだけである。
悪意ではなく、天かすや漬け物が大好きすぎてやっただけの人がいる可能性もある。
回転寿司のレーンにわさび袋が盛られた皿が流れることもあるが、わさびが欲しい人はそのまま手で掴んで持って帰ることもできるが、ではこれは窃盗になるのだろうか?
一般常識としてそれは如何なものか?という道徳論を繰り広げても埒があかない。
ではこれを法律で取り締まり『悪行』とするならば、いや、やはり『無くならないものは無くならない』のである。
自己肯定
ニュースになったのはなにも事の大小ではない。責める側が大多数いることが可視化されたことにも起因する。
そして責める側というのはだいたいにして自己肯定感が高い人たち(高くありたい、保ちたい人たち)である。
不景気にして自己肯定感が一方的に下げられていく世の中で自己を肯定するのは一生懸命である。
それは言うなれば『他者を攻撃して自分を正当化する行為』である。
ならば、斯様な出来事もなるべくしてなったわけである。
以上を踏まえると、訴訟という一括りで問題解決に挑もうとする企業のやり方自体、いかにも拙い行為であることがわかるだろう。
氷山の一角
ここまで問題提供のようなことをしてきたが、あいにく私はこれら出来事に関して自分なりに決着をつける気はない。
なぜならばこれは時代の流れの一角であり、起こるべくして起きた出来事であるからだ。
もちろん当事者として考えるのなら、ある程度の作為不作為を問わず対策をとらなければならないだろう。
そうして日々はアップデートされていくものだ。
一進一退の日々が続くのはなにも企業独特の問題ではなく、私のような一般国民にとって当たり前のことである。
生きていれば山あり谷ありだ。特別ではない。
いかなる理不尽を経ても、それでも生きると決めたなら、残念ながら強く生きるしかない。
しかしながら、自己の正義に捉われ過ぎず、激しくてもいいが、時には水のように穏やかに滑らかに過ごすのも大事なことであると私は改めて言いたい。
著/中の人
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